小さな鍋でオレンジペコのミルクティーを作った。たくさん。お湯を沸かし、ティーバッグの紅茶を数分間湯の中に漂わせて、蜂蜜と生姜と牛乳を加える。とても甘いミルクティーができた。それを注いだカップを片手に、ベッドの淵に腰かける。てきとうに積まれた中から同じくてきとうに選んだ雑誌を捲りながら、中の液体を啜った。甘い。けれど、とても美味しい。世の中はとても合理的だ。紅茶に蜂蜜を入れたら甘くなる。あたりまえ。何故蜂蜜が甘いかなんて知らない。知らなくても生きてゆける。蜂蜜が甘い理由を知ったところでたいしたことではない。それが合理だ。理屈だ。社会の歯車。合理的でなければきっといけない。社会というものがうまく回ってゆかない。それを知りつつ無理やり社会の歪みへと自ら身を投じてゆく若者は、もう今はいないだろう。ほんの10数年前。俺が産まれた頃、そんな若いアーティストがいた。いた、と過去形をさらりと言葉にできるようになったのはいつからだったかな。なんてことを考えているうちに読んでいる雑誌が実はたいして面白くないことに気がつき、元の場所に戻す。そして、またゆっくりとカップに口をつけた。
 静かだ、此処は。自分を制圧するものも束縛するものも何もない。ひとり。孤独といえば孤独だが、それ以上に自由であった。自由。それもまた孤独だよな、と俺は思う。結局まわりまわって元の場所。そう先の雑誌のように。手に取ったと思ったらもう元に戻っている。つまらないから、俺にとってすべてはそう。きっと。
 俺には携帯をいじる癖もないしネットサーフィンと称べるほどインターネットをするわけでもない。意味のないことが嫌いなのだ。報われないことはしたくない。答えがほしい。いつだって。俺は、しかし、デスクの上に置いてあった携帯を掴んだ。昔は、そうだった。過去系。数年前まで俺はそうであった。今は、どうなのだろう。わからない。俺にはもうわからなかった。ただ、携帯のアドレス帳を開いて、番号を押した。コールの5回目でようやく繋がった。「はい」。「ああ、あやべ?」。あやべの携帯にかけたのだから当たり前だとわかっていても、つい確認をしてしまう。この行為はまだ無意味じゃないよな確認だからと無理に自分を納得させながら。「何してた?」。とてものんびりとした発声だった。電話の向こう側であやべが小さく唸ったのを感じた。寝ていたらしい。「寝ていました」。うん、知ってる。愉快な気持ちでそう答える。「もう、2時ですか」。14時、という言い方をしないのが彼らしい。俺は12時から先は13時、14時という言い方を遣う。そのほうが午前午後の説明が要らないからだ。「先輩こそ、何を」。問われたので、正直に、暇してた、と返す。「そうですか」。「うん」。ミルクティーを一口。舌の上でゆっくりと転がす。甘さが喉の奥に張り付いている。





 もう少しで大丈夫になる気がしていた。
 それは、少しだけ、甘かったのかもしれない。

 緩やかな絶望に身を任せて、そんな気持ちで煙草に火を点けた。苛々していた。理由はわからない。けれど、理由もなく苛立つときが、わたしには、ままある。むしろ、苛立つ理由があるほうが少ない。新しく買ったばかりのライタは気持ちよく焔を吐き出し、煙草の先端を燃やす。ふうっと息を漏らすと、一瞬、赤い火花が散った。立て続けに3本を吸い、そこでようやく、わたしはすこし安心をした。安心。そう、安心なのだ。安心がしたいがためにわたしは煙草なんてちっとも美味しくないものを吸う。ほんのり苦くて甘い煙を食むと自分がすこしはまともで正常である気がする。生きるために時として多少の有害物質は必要であるといつかわたしは覚えた。生きてゆくことは大したことではなく、ただ、生きることは非常に面倒だ。煙を吸って、吐く。そこからは何も産まれない。生きることに似ている、と、わたしはぼんやりと思う。
 とてもいいお天気で、高い場所にある太陽がこちらを見ている。窓際、ベランダに続く床に座って煙草を手首に押しつけて潰す。
 埃が舞っているのが、光越しに見えた。最後に掃除をしたのはいつだったっけ。
 何もすることがなくなってしまったために、わたしは、何もすることができなくなってしまった。
 まるでいいわけだが事実なのであるから仕方がない。わたしには、今、何もない。何一つ強制されることがない。自由であるが、孤独であった。そして、孤独であるが、自由であった。
 強いて言えば煙草を吸う、それが唯一の仕事のよう。
 あまりにも何もがないため、呼吸すら忘れてしまいそうになるのを煙草を吸うことでなんとか生きてる。そう、そんな感じ。
 おひさまを目蓋に浮かべて、しばらく自分がくらげになる妄想をしては楽しんだ。わたしはくらげになりたい。それは先輩と観た自主制作映画の影響だった。先輩というのは同じ高校で学年がひとつ上だった久々知先輩のことで、今は国立大学の文学部にいる。先輩の友人である鉢屋先輩と不破先輩と竹谷先輩が、大学こそ違うものの同じ映画研究サークルで活動をしているという話を、わたしはもう随分と前に聞いた。晴れた春の日だった。ふわふわと泳ぐ春風が、わたしと先輩の髪の毛を揺らす。ふたつの影法師はとても頼りない。くらげみたいですね、とわたしがいうと先輩は少し何かを思案されるように眉根を寄せて、それから、はらり、と笑われた。「くらげの映画があるんだ」といったのはわたしの家への帰り道でだった。「くらげ?」とわたしが怪訝な顔をすると、「そう、くらげ」と先輩はおっしゃった。「竹谷が作ったんだけど。観る?」。そして、数日後にわたしは先輩方の作った映画を観た。それは確かに、くらげの映画だった。男がくらげと共存している、という内容で、登場人物は主人公の男(鉢屋先輩だった)と、キィパーソンらしき男(これは、不破先輩だった)、そして、くらげ。ただそれだけのショートムービィであったのだが、青いアクアリウムに漂うくらげの美しさにわたしは惹きこまれていた。気がついたら映画は終わっていて、先輩に声をかけられるまでわたしは口を半開きにさせて暗い画面を見つめていた。否、暗い画面ではない。わたしはまだ映画を観ていた。確かに、映画を観ていた。ついさっきまで観ていた映画を、アクアリウムに漂う青く透明なくらげを目蓋に映していた。
 とても美しかった。
 くらげ、と唇に乗せるとそれはふよふよと形のない煙のように部屋に満ちた。くらげ、くらげ。面白い発音。くらげ。
 滅多に鳴らない携帯が振動したのはその時で、突然のことにわたしはしばらく動くことができなかった。
 ベッドの上に放置したままのそれを拾いあげてフリップを開くと、着信は久々知先輩からのものだった。通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。「はい」。「ああ、あやべ?」。久々知先輩はのんびりとした発声で言葉を放たれた。わたしは「はい」、と律儀に答える。相手がほんとうにわたしであるかの、確認。「何してた?」。変な質問だな、とわたしは心の中で呟く。ひとりで、こんな時間に、なにもできないではないか。わたしは小さく唸って、それから、「寝ていました」と言った。電話の向こうで先輩が笑ったのがわかった。先輩は、とても、健やかな顔で笑われる。(顔なんて、むろん見えないけれど)。そして、わたしは本棚に乗っている小さな時計に目を向ける。いつの間にか、短針が2を差していた。「ああ、もう2時ですか」。どのくらいこうしてぼうっとしていたのかしら、まあ、そんなことはどうでもいいのだけれど。「先輩こそ、何を」。特に意味はわかったが、とりあえず質問をした。「暇してた」。「そうですか」。「うん」。熱いコーヒーが飲みたくなった。喉がやけに渇いていた。





 あやべを部屋に招き入れると同時に、「ミルクティーがあるよ」と言った。あやべは少し考えて、それから、「頂きます」と言った。
 太陽が少しだけ西に傾いて、狭い部屋に薄い光が射しこんでいた。
 一口コンロで鍋を温める。すぐに湯気が立って、俺はカップにミルクティーを注ぐ。ふたりぶん。ひとつをあやべに手渡し、もうひとつを片手に持って俺は床に座った。あやべはベッドの淵、さっきまで俺が座っていた場所にちょこんと腰を下ろしている。「最近はどう」。あいかわらずです、とあやべは答えた。静かな、深みのある声が耳に染みこむ。あやべの声が好きだ。あやべの髪の毛が好きだ。あやべのてのひらが好きだ。あやべの、「あやべが、好きだ」。伝えると、あやべはほんのりと微笑って、「わたしもすきです」と言った。そして、ふたりで小さく笑った。あやべはカップに薄い唇をつけて、ミルクティーを一口啜る。「甘いですね」。わたしにとっては。と付け加えられて、俺は、コーヒーを用意すればよかったかな、と少し後悔した。「でも」。視線が持ち上がって俺を射抜く。綺麗なアーモンド形の瞳。「おいしいです」。そうか、よかった。俺は安堵のため息を漏らす。しばらく、沈黙が落ちた。
「先輩は、いかがですか」。不意に話しかけられた。
「うん。まあまあ、かな」。我ながら曖昧な返事だ。しかし、俺達の間に在る曖昧さを取ってしまうと、他に、何が残るだろう。
「映画は」。「うん。撮っているみたいだよ」。「先輩は、」。「うん」。「撮らないのですか」。そうだね、とはにかむと、あやべは片方の眉を持ち上げて、そして、そうですか、と言った。
「最近読んだ本を教えて」。今度は俺が質問をした。
「先日、『雪のひとひら』を読みました」。「……ギャリコの?」。「はい」。
 そうか、と頷く。
「どうだった?」。「とてもよかったです。美しかった」。「そう。よかった」。本はあやべとの唯一に等しい共通項で、それは高校時代から続いている。あやべは俺と違い聡明であるから、ジャンルの見境がない。ドストエフスキー、ナボコフ、ハインライン、ポール・ギャリコ、サリンジャー、ホーソーン、夏目漱石、太宰治、梶井基次郎。なんでも読みます、と最初に俺に言ったとおり、あやべはなんでも読んだ。なんでも自分のものにしてきた。聡明な子なのだ、とそのたびに俺は思い知る。
「雪のひとひらは、最期、煤まみれで死ぬのです」。ああ、そういえばそんな話だった。授業で扱われた時に齧った程度の俺の知識では、そんな、淡い記憶にしかとどまっていない。「俺、もっと勉強頑張るよ」。「何故ですか?」。突然の宣言にあやべは驚いたようだった。「うん、あやべともっと話がしたいから」。「……今でも、話はできます」。「うん、でも……」。そこで、言葉をとめ、ミルクティーと一緒に嚥下した。
 そして沈黙。動くものは何もなかった。太陽だけがゆっくりと時間の経過を教えてくれる。それだけの空間。
「あの」。しばらくしてあやべが口を開いた。
「煙草を吸っても大丈夫ですか」。





 先輩はやわらかく微笑まれた。まるで、なにも問題などない、と言っているように。わたしはそれに甘え、バッグから煙草とライタを取り出して、一本に火を点ける。煙を吸う。そして、細く長く深く、吐き出す。「灰皿を」。先輩がデスクの上に手を伸ばし、言う。「買ったんだ」。「えっ」。先輩の美しい指がアルミ製の薄い灰皿を摘まんでいた。その途端に、わたしは絶望的に悲しくなり、なにもいえなくなってしまった。先輩が笑っている様子を見つめて、灰皿を見て、自分の指に挟まっている煙草を見て、また先輩に視線を移して、それから、それから、あああ、と声を漏らす。俯いたはしから灰が床に落ちそうになる。「あやべ?」。狼狽した先輩の声。わたしは、泣きたくなってしまって、先輩の視線から逃れようと目を閉じた。なきそう。「なぜ?」。ようやく声が出た。それは掠れていた。「なぜあなたが灰皿を買わなければならないのですか」。わたしの質問は、しかし、彼にとってはまったく意味のわからないものであったらしい。先輩は、「だってあやべがたばこをすうから」と言って、わたしはちがうそうじゃないちがうのにと首を振って否定した。否定? 何を? すべてを?
「先輩に煙草なんて似合わないのに」。「俺は吸わないよ。吸えないよ」。「灰皿なんて、全然、似合わない」。それは真実だった。少なくともわたしの中の先輩は煙草なんて吸わないし、吸う必要もないと思っていた。それなのに。
「ああ……」。
 零れそうな灰を仕方なく先輩の灰皿に落とし、その瞬間すべてが歪みぶれてわたしは煙草を潰した。灰皿があってよかったとこんなときばかり思う。わたしはわたしの手首以外で煙草を潰さない。
「ねえ」。俯いているわたしの顔を先輩のてのひらが包みこむ。優しくて温かい手だ。じいっと大きく黒い瞳がわたしを見ていた。その視線からは、逃げられないことをわたしはずっと知っていた。逃げるなどと、そんな、愚かにもほどがある。「あやべは」。あまり優しくしないでほしい。逃げてしまいたくなる。逃げられないとわかっていて、そんなことを考えてしまう死にたくなってしまうあまりあまりあまりわたしを。現実に。縛りつけないで。いて。ください。「あやべは、」。煙が風に撒かれて白い世界へ。ふわふわと漂いながら、外へ。もう金木犀が香るだろうか。
「あやべはほんとうは俺じゃない誰かが必要なんだって、思う、よ」。
 わたしは、とうとう泣いて、どうしてそんなことをいうのか、と、訊ねた。
 溢れる涙は止まらず、止めることもなく、瞳は真っすぐに先輩を。見つめて。
「でも、」。
 なにが必要かなんてわたしにはまったくわからなかった。ただわかるのは、必要な誰かは、先輩、という、それだけ。なのに。
「でもあやべが必要だっていってくれるのなら俺は此処にいるよ。ずっと。忘れないし。思い出すし。だから。」。
 大丈夫になってほしいんだ、俺は、あやべに。先輩は言葉を続け、わたしは、瞬きをして涙を零す。もう、だいじょうぶだとおもっていたのはほんとうにあまかったのだわたしは。喉に煙が絡まったような苦さを感じて、きゅうと目を閉じて、また開ける。
 先輩の瞳は黒かった。睫毛は長くてとても綺麗に生え揃っている。健やかな笑顔。本が好きで文学部。大学生。わたしにはないなにものも彼は持っていた。そしてわたしには彼が必要であるとわたしは知っていた。だから求めた。貴方を。ずっと。求めていた。
 少しでも大丈夫になりたいから。貴方を。抱きしめたい。





煙 に 滲 む 指 先 で 頬 を 咬 ん だ


[ 2009/10/16 ]