音楽に抱かれていた。間違いなく。 穏やかな波打ち際で漂う、死にかけのくらげみたいな浮遊感から離脱した。まず視界に這入りこんだのは白だった。白いカーテンが春風に揺らめく、影がその後を追ってゆく。あたしは保健室のベッドの中で、薄く目蓋を閉じて寝返りを打った。 (天井も、白い……) まだ夢見心地でそんな事を思う。 保健室の無愛想な白には慣れていたはずなのに、何故か心細くなる。 心細さの原因はすぐにわかった。耳に突っこんだままのイヤフォンの先を辿り、紫のカヴァーが掛かったiPodを見つけた。 指を滑らせて画面を表示すると、同じアーティストを蜿蜒(えんえん)と流していたのだと初めて気づく。 最早身体の奥に刻まれてしまっているだろうシンガーソングライターのハスキィな声が、言葉を紡いでいる。 心は穏やか過ぎるほどなのに、このアーティストの声を、歌を聴くと、どうしようもなく心臓が痛む。きっと徐々に傷んでいた心を、声と言葉とメロディによって暴かれる。晒し出された心は小さくて、どうしようもなく弱かった。 音楽に抱かれていた。 「トモミ?」 カーテンの向こう側でユキの声がした。音と音の途切れ、声と声の狭間に這入ってきた彼女に、「何?」、と返す。 「ああ、やっぱり起きてたのね」 カーテンが引かれて、ユキが顔を覗かせる。赤味がかった明るい髪の毛が西日に照らされて、ふっくらとした頬にも健康的な色が跳ね返っていた。 「もう授業終わっちゃったわよ」 「放課後?」 「そう」 つまり4時間目からずっと此処にいたわけだ。壁にかかった時計は16時を廻ろうとしていた。 「具合、大丈夫?」 「……うん」 不安そうに眉を寄せるユキに、薄く微笑み返す。イヤフォンを引っ張ると、あたしは緩慢な動きで髪の毛を払った。 「帰る?」 「そうね……、」 元々サボりの目的で保健室へやってきた事に、ユキは気づいていない。体調は悪くないのだから、放課後の部活に出ようか少しだけ迷った。しかし、久しぶりに空腹感を覚え、昼食を食べていない事を思い出す。 「今日はもう帰るわ」 傾き始めた太陽が、保健室の白をオレンジに染めてゆく。その風景に、衣替えをしたばかりのユキの姿が妙に映えた。半袖から伸びる陽に灼けた腕や、少し膨らんだ胸許や、柔らかそうな腰のラインが影となって白い床に線を引く。 ユキは腰に両手を添えて大きく伸びをした。 「じゃあ、あたしも帰ろっかなあ……」 「部活は?」 「一日くらい休んだって問題ないって」 それからユキは私に顔を近づけて微笑んだ。 「久しぶりに一緒に帰ろう?」 ユキの笑顔を見た途端、締めつけられるほどの痛みが胸に走って思わず目を細めた。もう少しで泣ける、という一瞬にしてあたしは彼女にすべてをぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。 「……お腹が空いたから、ミスドに寄ってもいいかしら」 「あ、いいね、行きたい! ちょー久々! あたし、こないだクーポン貰ったんだぁ」 iPodをプリーツスカートのポケットに仕舞いながら、視線を窓に走らせた。もうグラウンドに出ている生徒の中に見覚えのある顔を見つけた。 「あやかだ」 「え、何処?」 「ほら、二塁のところで野球部の男子としゃべってる」 「ちょっとやだ、あれ虎若じゃない?!」 あやかとしゃべっている男子は、2年B組の佐武虎若だった。 「何よ、デレデレしちゃってさぁ、あやかはうちのマドンナよ! 10年早いわ!」 どうやら本気で怒ったらしいユキの肩を軽く叩いて、「メールで訊いてみたら?」、と笑う。 「虎若のメアドなんて知らないわよ! ともちゃんが訊いてみてよ!」 「残念。あたしも知らないわ」 あたしは紙に名前とクラス、入室時間と退室時間、症状を適当に書いて、ユキの手を握った。 急速に遠ざかってしまった距離を埋めるみたいに、そんな事は不可能だとわかっていながら、あたしはユキと手を繋いで教室までを歩いた。 ユキの声と、あのアーティストのハスキィな声が、寒さに晒された臆病な心を少しだけ溶かしてくれる気がした。 { 2010/04/09 ] |