2DKの半助さんの部屋は、俺の期待を一切裏切らず(と、ゆうと、とても失礼なのだろうけれど)、半助さんのズボラさが壁や床や流しのシンクに浸みこんでしまっているようだった。朝の7時に仕掛けた目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、俺は身体を起こす。畳の床で眠るとゆうのは、存外俺を安心させてくれた。それは、俺が叔母さんの家で、絨毯の敷かれていない床に直接マットレスを敷いて寝ていた冷たさを覚えているからなのか、わからないけれど、とにかく、俺に与えられた6畳の部屋は文句なしに居心地がよかった。カーテンを開けると4月の澄んだ空に幾筋かの雲が線を引っ張っていた。
 半助さんが就職してから借りたこのマンションは、安普請の割りに結構広い。俺の部屋にしてくれたこの部屋は、もともとは物置代わりにしていたらしい、俺が居候をさせてもらう事が決まった時に少しは片づけたようだったが、部屋の隅にはまだ段ボールに入りきらなかった古い本が平積みにされている。それから、天井に届くまでの大きな本棚は、異様な存在感を放っていて、まるで部屋の主みたいだった。
 それ以外には家具と呼べるものはほとんどない、でも、俺だけのお城。そんな感じ。
 布団は洗い立てらしく、初めて潜りこんだ夜には、柔軟剤のいい匂いがした。甘い、フリージアの匂い。
 それから俺は部屋を出て、家中のカーテンとゆうカーテンを開けて廻った。(と、ゆっても、実際に窓は俺の部屋に一つ、半助さんの部屋に一つ、台所に一つあるだけだから、それほど多くはない)。
 さあっと差しこまれる朝の光は思わず目を瞑ってしまうほど眩しくって、俺はついでに窓も全開にした。途端に入ってくる、緩やかな春の風はやはり、何処か青くて甘かった。
 そして、半助さんの部屋の襖を思いっきり開ける。半助さんは身体を横向きにして、まだ深く眠っている。きっと仕事の疲れがあるからだと思うけれど、このひとは、一回呼んだくらいで起きられるほど容易くない。それは俺が此処にきて、(つまり、半助さんの世話になるようになって)、学んだ事の一つ。
「半助さん、朝ですよっ」
 そう言いながら部屋に足を踏み入れ、カーテンを勢いよく引く。小さな呻き声がして、しかし再び夢の中へ旅立ってしまいそうな半助さんに向かって、「ほらほら、また寝坊しますよっ」、と、放つ。そうしてようやく、半助さんはごしごしと髪の毛を掻きながら起き上がるのだった。腫れぼったい目蓋に、また徹夜で仕事してたんだとわかる。半助さんの机の上には、新学期用のぶ厚い書類が、PCの上に置かれている。
「おはよう、きり丸」
 くたりとゆう笑顔を浮かべて、半助さんはのん気に挨拶をする。
「はいはいおはよーざいます」
「あぁあ、もう朝か……、3時間しか眠れなかった」
 胡坐を掻いたまま、机の上の目覚まし時計を見つめる。(寝起きが悪いくせに、このひとは、目覚まし時計とゆうものを有効活用できていない、これじゃあ“ただの時計”だ)。
 俺は呆れのため息を吐きつつ、
「何で学校で仕事片づけちゃわないンすか、ほんっと要領悪いなあ」
「もちろん、学校でもやったさ。終わらなかったンだよ」
「終わらなかったんなら徹夜したって片づけなきゃですよっ、しっかりしてくださいよもういい社会人なんだからっ」
 小姑みたいな台詞を残して俺は台所に引き上げる。後ろのほうから眠たそうな欠伸が聞こえてきて、くっと笑いがこみ上げた。

 一人暮らしらしく冷凍されたご飯をふたり分、レンジで解凍しながら、簡単な朝食を作る。甘めの卵焼きと、スーパーで安かった茄子の漬け物を小皿に盛って、インスタントの味噌汁も用意して、準備は完了する。電子レンジがチン、と鳴ったのを合図に、俺は半助さんの部屋に顔を出す。
「朝飯できましたよー」
 半助さんはヴェランダに出て、(まだ寝間着のままだ)、煙草を吸っていた。俺は全然気にしていないのに、半助さんは、部屋の中では絶対に煙草を吸わない。俺が未成年であるとか、そうゆう要らない倫理観からなのだろうけれど、正直ゆって煙草を吸うために毎回ヴェランダに出てゆく半助さんは、見ていて少し痛々しい。
 閉め切った(これも半助さんなりの俺への気遣い。まったく余計なお世話だ。)窓越しに見える半助さんの背中は少し猫背になっていて、手摺りに凭れているのだとわかる。俺はしばらく、ゆらゆらと頼りなく空に昇ってゆく煙と、丸くなった背中を見つめていた。

 いつだったか、リビングのテーブルに置かれていた半助さんのキャメルの箱と100円ライターをこっそりくすねて、一本だけ吸ってみた事があった。煙はただ苦いだけで、でも、俺には調度いい気がした。
「こら!」
 いきなりかかった背後からの声に振り返るのと、半助さんの手が煙草をむしり取るのはほとんど同時だったと思う。煙草は半助さんの手の中で握り潰され、残り香だけが未練がましく部屋に漂っていた。
「未成年は喫煙禁止だ」
 今までに聞いた事のない低く、太い声で半助さんは放った。
 あんなに怒った半助さんを見るのは初めてだった。
 半助さんは潰した吸い殻を、キャメルの箱やライターや小さな灰皿などと一緒に自分の部屋に持っていった。
 しとしと、と、絡みつくような雨の降る、肌寒い春先の日だった。
 まだ15時を少しすぎたばかりなのに妙に薄暗い部屋で、俺は、何故だか胸がすーっとして、不意に泣きだしたい気持ちになった。唇に残っている煙草の苦みや鼻の奥までまといつく独特の匂い、吸った時の、指先がほんのちょっとだけ痺れるみたいな、ふっと感覚が鈍くなって空気に溶けてゆけるみたいな、そんな不思議な心地は、今でもずっと、残っている。そして、それが俺を、すーっ、と、寂しくさせるのだった。

「そろそろ入学式だな」
 朝食のご飯を口に運びながら、半助さんはゆった。相変わらずの寝間着(それは駅前のバザールで買った安物の上下だ)姿で、髪の毛も寝癖がついてぼさぼさの半助さんは、ご飯と卵焼きと漬け物と味噌汁を、とても公平に食べる。俺はご飯を味噌汁で流しこむ、卵焼きを食べたら口直し程度に漬け物を齧るのだけれど、半助さんは非道くゆったりとした動きで、でも一連の動作に狂いや迷いのない、そんな食べかたをする。
 それで、俺が口直しの漬け物をぼりぼり砕いている間、食事の半分を残した状態で、半助さんは、毎朝、世間話を始める。
 今朝は、もう来週末に迫った中学の入学式の話だった。
「そうっすね」
 右から左に受け流すつもりで答えると、半助さんは困ったように眉根を寄せて、
「ほんとうによかったのか? せっかく試験受けて入った中学だったのに」
 と、言った。(そして、箸を最後の卵焼きに伸ばす)。
「別に。俺は私立でも公立でもどっちでもよかったし。お金がかかんないなら公立のほうがいいし」
「……そうか」
 俺がまだ叔母さんと暮らしていた頃、俺は勧められるままに私立の小学校を受験し、合格した。その小学校は有名な大学の附属だったらしく、今考えると“後々の事を考えて”叔母さんが勝手に受験をさせたのだとわかる。
 私立だと学区は関係ないから、もちろん半助さんの家からだって通学はできたけれど、義務教育なのにわざわざお金を払って中学に通うのは馬鹿々々しいと思った。それに、授業料の納金は小学校までで、叔母さんは俺のためのお金をこれっぽちも残していなかった。
「でも、今までの友達と離れるのはつらいだろう」
 半助さんは食後のほうじ茶(俺は毎朝牛乳を飲む)を一口飲んで、言った。
「別に」
 牛乳の1Lパックを傾けてコップに注ぎ、それを一息で飲み干した。
 それで、話は終わった。
 半助さんは両手を合わせて「ごちそうさま」をし、俺が「お粗末様でした」をゆう。そして俺が食器類を洗っている間に準備を始めるのが、此処のところの半助さんの日常だ。洗面所から聞こえてくる歯みがきと、顔を洗う音、水がタイル張りの壁に跳ねる心地好い音が、俺は好きだった。
 泡立ったスポンジを動かして、その音をBGMに俺はでたらめな歌をうたう。
 特に音楽が好きなわけではなかったが、歌をうたうとすっきりするから。半助さんは最初、意味不明な歌をうたう俺に驚いたようだったけれど、「しん、としてるよりは子供らしくていい」、と笑った。だから、俺はできるだけ子供っぽい歌を、自作自演する。

 はーんすけさんはがっこーのせんせー、
 しーがないこくごきょーしー、
 すてねこだってー、ひろっちゃうのよー、

 そんなふうな歌。
「今日はまた一段と変な歌だな」
 洗面所から出てきた半助さんは、俺の歌に苦笑を顔に貼りつかせたけれど、くたっとなったポロシャツとチノパンに着替え、水で洗ったさっぱりとした顔はいかにもお人好しな“しがない国語教師”とゆった体だった。
「これ、CDにしたら売れるかも」
「売れないよ」
「もう行くンすか?」
 一度自分の部屋に引っこんだ半助さんはすぐにショルダバッグを抱えて、玄関の三和土に腰をおろし、「新学期が近いからな」、と言った。
「ふーん、やっぱ忙しいんすね、先生って」
 年度末と年度始めは春休みに関係なく出勤している半助さんは、いつも着ているポロシャツみたいにくたっとしていて、それはそれでやわらかくて、温かそうで、俺は、つい甘えたくなってしまう弱さを、胸に抑えこむのに踏ん張らなければならなかった。
 くたっとして、着古したシャツみたいな半助さんの笑顔。ほんとうは疲れてるだろうにいつも笑ってみせる潔い強さ。全然健康的じゃない生活サイクル。
「あ、きり丸」
 また胸の奥が、すーっと寂しくなるのを堪えて、何すかぁ、と、わざとらしく答える。
「来週末の入学式、ちゃんと行くからな」
「えっ、いっすよ別に! 恥ずかしいなあ」
「何言ってんだ、せっかくの晴れ舞台だぞ」
 立ちあがった半助さんの腕が伸びて、てのひらが頭をくしゃくしゃっと撫ぜる。大きな手。取り切れなかったインクの匂い。
「成人式じゃあるまいし」
「中学校の入学式だって立派な“式”だ」
「ふーん……」
 それから、半助さんはドアノブに手を引っ掛けて、じゃあな、とゆう。
「行ってきます。火の元、気をつけろよ。新聞の勧誘が来たら、絶対に鍵を開けちゃ駄目だぞ」
「わかってますよそのくらい」
「あと、宗教も駄目だからな」
「わかってますから! ほらほら、さっさと行ってらっしゃい!」
 まだ注意事項を言おうとする半助さんを追いたてるように、俺は泡だらけの手をぶんぶんと振った。
 ばたん、と、重たいドアが閉まって、束の間の静寂に背筋が冷たくなった。それを誤魔化すために水道の蛇口を思いっきり開き、お湯が出るまで垂れ流す。
 ぱしゃぱしゃ、とシンクに飛び散る水音が、唐突に洗面所にいた半助さんを思いださせて、また胸がすーっとした。でも、俺は何も気づかない真似(フリ)をして、残った茶碗や皿の泡を、ぬるま湯で洗い流した。



わ た し の て ん し さ ま




titled by シュロ
(2010/04/29)