俺を2歳から12歳までの10年間、育ててくれた母の妹は、最後に、「ごめんね」、と言って俺に手を振ると、駅に向かって走り出した。薄い柿渋色のスカートから覗く白い足に、跳ねた泥が貼りついてとてもかなしい気持ちになった。 叔母さんがいなくなってしまってから、俺は非道くきれいな気持ちでバス停留所のベンチに腰を掛けた。屋根を打つ雨の音がやたらと遠くに聞こえて、知らず握り締めていた拳から力を抜く。膝の上には小さな黒いボストンバッグ、その中には俺の生活用品すべてが入っている。バッグのポケットから小学校に入学して以来持たされていた携帯を取り出す。ストラップも何も付いていない薄い携帯。きっと、この携帯が鳴る事は今後ないのだろう。そう思うと持っているだけ無駄な気がして、売れるかなぁ、と考えた。否、売れない。じゃあ、廃品回収にでも出してトイレットペーパーか何かと交換して貰おう。 バッグの底に仕舞おうとした時、唐突に携帯が着信を告げた。ピリピリピリ、という可愛げのない音楽に一瞬身構え、画面に表示された知らない番号に眉根を寄せた。俺は親指で受信ボタンを押した。 「……もしもし」 「あぁ、やっと繋がった。きり丸君か」 若い男の声だった。 「そうですけど」 誰?、と訊ねる前に、男は電話の向こう側で、 「これから君と一緒に暮らす土井半助です。君の叔母さんから連絡があって、番号を教えて貰ったから掛けてみたんだけど」 「はぁ……」 降り続く雨の所為か、声がくぐもっている。 「どうして繋がらなかったのかなぁ……」 「今まで地下入ってたからじゃないすか?」 冷静に答えてやると、土井と名乗った男のひとは、大きく、ああ、なるほど、と笑った。 「今は何処にいるんだ?」 「えっと……バス停です。これからそっちに向かうところです」 「そうか、わかった。じゃあ最寄りのバス停まで迎えに行くよ」 「え?」 俺が驚いた事に気づかないのか、土井さんは、じゃあな、と言って電話を切ってしまった。いちいちそんな事しなくてもいいのに、と少しばかり浮かび上がった苛立ちを噛み締めて、携帯のフリップを閉じる。ぱちり、という軽い音。煙る視界はどんどんと、灰色に染まってゆく。 やがてバスがやってきた。 メモに書かれたバス停で降りると、紺色の蝙蝠傘を差した男がぽつんと立っていた。 非道い寝癖が気になる、こげ茶混じりの黒い髪の毛、着古した感のあるセータに、ダウンジャケットを羽織り、大きめのジーンズを穿いていた。 ステップを降りる俺に向かって手を挙げ笑う男の足許に目をやると、草臥れた黄色い健康サンダルが、泥と雨を被っていた。 「初めまして」 男の前に立ち、俺は頭を下げた。背後を誰も乗せなかったバスが走り去ってゆく。雨脚が強くなった気がする。 「初めまして。……傘は?」 「持ってません」 そう返すと、土井さんはちょっとだけ驚いたように目を丸くした。しかしすぐに穏やかな笑みに戻り、俺の腕からバッグを奪うと、手首を掴んで無理やり傘の下に入れた。 「なんですか?」 「だって、傘を持っていないんだろう」 「でも、濡れちゃうじゃないですか」 「私はいいんだよ」 土井さんは、くたっと笑った。目尻が下がり、ただでさえ優しい顔がもっと優しくなる。傘からはみ出た半身が少しずつ雨に溶かされる。 「傘、俺が持ちます」 「お、悪いな」 「お互い様です」 土井さんは俺のバッグを持ってくれたのだから、そのくらいして当然だと思った。 車道側を歩く土井さんが左手にバッグを提げ、俺は右手に傘を持って、此処から徒歩数分だという土井さんのマンションまでてろてろ歩いた。 雨が傘を叩く音、思い出したようにやってくる車が水溜まりを踏む音、ふたりの足音。 俺のコンバースのスニーカが、きゅっきゅっ、と鳴く。ぺたんぺたんぺたんぺたん……、これは土井さんの健康サンダル。ぺたんぺたんぺたんぺたん……、時々、ぎゅ、とか、ざり、とか、音するよ。買い換えたほうがいいっすよ、年季入ってるっぽいし。このひと、収入とかどのくらいなんだろう……、てゆーか、マジで高校の教師なんすか? 何か全然そんな気配しないんですけど。 「何も訊かないんだなあ」 唐突に土井さんが口を開いた。俺は少し首を捻って、土井さんの横顔を窺った。 「何も、って?」 「たとえば、私と君がどんな関係なのか、とか、私の名前とか、歳とか」 「土井さんは叔母さんの遠い親戚だって聞いてます。名前も知ってるし。さっき、電話で言ったじゃないすか」 その前に知ってたけどね、土井さんの事。親戚っていうのは嘘だって事も。土井さんは、ほんとうは、叔母さんが前に付き合ってたひとだって、知ってるんだ、俺。しかも、フリンとかゆー、三文昼ドラみたいな関係だった、らしい。当時、叔母さんは今カレとも付き合っていた。俺と土井さんに血の繋がりは何もない。まったく、全然の赤の他人。叔母さんと土井さんは数年前に別れたらしい。今は別の男にお熱な叔母さんに、別れるって一方的に言われた今カレがやけくそで俺に言ったの、憶えてるもん。『お前が今度世話になる男は、あいつが昔付き合ってた男なんだぞ』って。 ……なんか、めちゃくちゃビミョーなんすけど、俺としては。 両親が死んで親族が母さんの妹しかいなかったからそこに預けられて、10年。俺は叔母さんと暮らしていた。他人ではない、でも、決して家族でもない、そんな微妙な関係を続けてきた。 叔母さんは男好きらしく、しょっちゅう彼氏を家に連れてきた。今カレ、元カレ、前カレ、とかで区別していたけれど、どの男も甲斐性はなさそうだった。当たり前みたいだけど、彼らは長くて半年もって精々だった。 「あぁ……、そうか」 「別に何も……、知らなくていいですよ、俺は」 俺は俯いて、爪先が雨粒を蹴る様を見つめていた。 この男も、甲斐性がなさそうなところは、叔母さんが選んだ“彼氏”っぽかった。 それから数分、俺達は無言でひたすら歩き続けた。不意に鼻を掠めた青い匂いにハッとして、顔を上げる。雨に濡れた桜が、枝と枝を伸ばし合って撓垂(しなだ)れていた。 「此処らへんは暖かいから、開花が早いんだ」 「へー……」 雨によって落とされた花びらが足許に散らばっていて、俺はそれを踏まないように歩いた。その所為で、土井さんより半歩遅れた。しかし俺は、もう雨に濡れてしまおうがどうでもいいと思った。 傘を土井さんに返す。 「濡れるぞ」 少し前で立ち止まった土井さんが声をかけたが、俺は黙って目を瞑り、天を仰いだ。 ばらばらと落ちてくる雨粒が額を、頬を、唇を殴り、3月のまだ冷たい風が腕の隙間やジャンパの襟元から這入りこむ。 「濡れるぞ」 目蓋を覆った影に目を開けると、土井さんが傘をこちらに傾けて笑っていた。唇の端をちょこっとだけ持ち上げる、結構難易度高い笑い方。 俺は手の甲で乱暴に顔を拭い、大人しく土井さんの傘の中に入った。その時、一瞬だけ香った甘い煙草の匂いに、心臓が一気に弛緩するのを覚えた。 甘い、キャメルの匂い。 「……煙草、吸うんですか」 土井さんが困ったようにはにかんだのは、きっと、まだ年端もない子供に煙草を指摘されたからだろう。俺は気にしないけどね、別に。 「偶に、な」 「ふーん……」 薄いクリーム色の壁をしたマンションが見えてきた。これからこのひとと暮らす、新しいおれの家。 それほど広くないエントランスに入り、郵便受けを覗きこむ土井さんから離れて、エレベータホールで立ち止まった。しん、としているのは、春休みとはいえ平日だからなのか。 「4階だからな、407号室」 「はーい」 エレベータはさっさと俺達を乗せて4階まで昇ってゆく。前髪から零れる雫が、足許に染みを作る。結局濡れてしまった。シャワー借りなきゃなぁ。 「きり丸」 「……はい?」 名前を呼ばれて振り返る。土井さんは言葉を選んでいるのか、数回瞬きをしてから放った。 「“きり丸”って呼んでいいか」 「え?」 驚いた。今まで、大人に日常的に呼び捨てにされた事なんてなかったから。叔母さん達もいつも“きり丸君”だったし、近所のひと達も“きりちゃん”だった。 “他人”と“身内”の境界線を、彼らはそうやって俺に示して見せた。 「そんなに驚く事じゃないだろう、これから家族になるんだから」 「……別に、いーっすけど」 “家族”という言葉が無性に照れ臭くて、俺は土井さんから視線を外した。ポーン、と音がして、4階に着く。ドアが開いて、土井さんを先頭に狭い廊下を歩く。401、402、403、……、 「じゃあ、俺は何て呼べば?」 404、405……、 「好きに呼べばいいサ」 406、 「んじゃあ、“半助さん”って呼びますね」 407号室のドアの前で半助さんは立ち止まる。ジーンズの尻ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差しこむ。 その時初めて、俺は半助さんの手をしっかりと見た。 無骨で、大きな手。 「好きにしなさい」 「はい、好きにしまーす」 半助さんの微笑みに背中を押されて、俺は、“俺達の家”に入っていった。 静夜思 / 李白 |