「死にたくないって思うのは、忍者失格なのかな?」 夕日を照り返す家路を歩くきり丸が、前を向いたまま唐突に言った。それは疑問形だったが、隣を同じ歩幅で歩く半助には単なる気まぐれな――きり丸の得意な――ひとり言のように響いた。うん? と曖昧に訊き返すと、ふっと持ち上がった切れ長の目と半助の目がぶつかる。きり丸の、猫に似た黒い目を半助はひそかに好いていた。懐かしさを誘う秋風が、道端の草を揺らす。 「だからぁ。死にたくないって思うのは、忍者として駄目なのかなって思ったんすよ」 きり丸は半助の緩慢な反応に少しむくれたのか、投げるように言った。 そうだなあ、と半助は背中の風呂敷を抱え直しながら言葉を探す。 仮にも忍びとして生きようとしている生徒達に対して、そういった問いには憮然と応えなければならないのだろう。教師らしく、いかにもすべてを知った大人ぶって。熟練の教育者には当たり前だと一蹴されそうなそれを、しかし半助にはできる自信がなかった。 それはきり丸を、既に自分の人生の一部と考えているからにほかならない。彼は自分にとって唯一の、“家族のようなもの”だった。 「まあ、そうだろうなあ」 だから、卑怯だとは思いながらも、つい曖昧さを孕んだ常套句で流してしまいたくなる。 今は自分の胸までしかない幼い身体が、いつの間にか手の届かないところに立つ姿を想像する。いずれは血を握る事になるだろうまだ小さな手のひらは、ぷらぷらと無防備に、彼の両側で揺れている。細くて骨の目立つ指先は、触れればきっと冷たい。その冷たさに、しかし血の通っている事は確かだ。 確認するように手を伸ばし、指をそっと握ってみる。きり丸は驚いたのか、目を丸くしてこちらを見やった。 「なんすか、いきなり」 怪訝さを孕んだ声だった。半助は苦笑して、より深く、肌を自分の粗のある手で包む。 きり丸の手は、やはり冷たかった。その奥にこども特有の温かさを信じて、ぎゅ、と握る。 「小さい手だなあ」 「……放っといてくださいよ、もう」 拒絶ではなく恥じらいがさせるきり丸の抵抗は、大人になってしまった半助には通用しない。逃げ場がないと知ったのか、きり丸はほどこうとした半助の手をそのままにした。 短い秋休みはすべて家の掃除で終わってしまうだろう事を、半助は残念に感じていた。学園を出る前から。 きり丸は手伝いの合間にアルバイトをすると意気ごんでいたが、一日だけの子守りくらいしかできないと彼もまた知っていた。 「せっかく帰れるのに」 学園を出てしばらくは、そうぶうぶうと文句を言っていた。その文句を窘めたり、秋休み明けの授業の話をしたりをしながら、夕闇が迫るふたりの帰路を歩いてきた。 「せんせい」 不意に零れたきり丸の声に、半助はゆったりと耳を傾ける。 「おれね、」 「うん」 とんぼが目の前をすいっと飛んでいく。撓った稲穂にいくつもの翅がくっついている風景が、すぐ横目にある。 「忍者失格っていわれてもいいよ」 半助は、黙っていた。 「おれ、死にたくないんだ」 切実な言葉は、彼の見せてくれた、唯一の、幼い心のようだった。 「おれ、死にたくない。忍者失格でもいい。死にたくない。明日なんて贅沢はいわないから、3秒先の景色を見たいんだ」 視線を下げると、きり丸の艶(つや)やかな黒髪が歩くたびに揺れているのがわかる。きれいに生え揃った睫毛が少し日に灼けた頬に淡い翳を落とし、表情は、汲み取れなかった。 「ほんとうはそう思ってる事、せんせいにしかゆわれない」 きり丸はそう言って顔を持ち上げると、半助と視線を合わせた。茜に染められた空気がきり丸の輪郭を、淡くなぞった。 「それでいい」 きれいな笑みを作る顔に嵌った、震える黒い瞳に堪え切れず、半助はきり丸の身体を胸板に引き寄せた。厚みのない身体はたやすく腕の中におさまり、そのあまりの幼さに、いつものひとを喰ったような生意気な言葉の裏側を見てしまった気まずさが心臓を舐めた。 「それでいい。……今は」 卑怯な大人だ、と、自分でも思う。大人になっていくにつれ、どんどんと、卑怯に、狡くなっていく。なりきってしまった自分は、もうこんなに純粋にはなれない。 「せんせい、苦しいっす」 思いのほか強く押しつけていたのか、きり丸が握られていないほうの手で、胸を軽く叩いた。するりと離すと、彼は眩しい笑みをこちらに向けて、 「帰りましょ」 と、言った。 「うん」 半助の柔らかい笑みをみつめ、きり丸は包まれていた手をほどき、先に立って歩き出す。 「あ、」 数歩先で立ち止まった薄い背中を、もう弱くなった夕日が静かになぞった。 「むくげが咲いてる」 「ほんとうだな」 きり丸の指をさすほうに視線を向けると、むくげの白い花が、やがてくる夜に備えて花びらを閉じようとしていた。 [ 2010/09/19 ] |