眠る、は、墜ちてく、に似ている。海に沈んでゆく感覚をわたしは知らないけれど、きっと、眠る、にとてもよく似ているのだろう。薄靄が目の前にかかっているよう、日差しは透明な蜂蜜色をして、さやかな風が青葉を揺らす。こっちのみぃずはあぁまいぞ、そうして彼を海の底へと誘うのだ。――そこまで考えて、喜八郎はきゅうに心細くなった。目の先にある彼がすいと消えてしまう気がした。波打ち際まで歩いていって、じゃぶじゃぶ青黒い水に足を浸して、そうしてわだつみにゆこうとして――、沈む。あちらまでは、ゆけないのですよ、兵助さん。
 可哀そうになり、そっと黒い髪の毛を指先で撫でた。少しだけ睫毛が震えているから、夢をみているのかしらん。髪からぽってりとした瞼に指を這わせ、微かな揺らぎを触角する。それで、大丈夫な気がした。優しい夢をみている気がした。そうであればよいのに、と、想った。
 眠るように墜ちて沈んでしまっても、でもきっと、貴方は抵抗なさるのでしょう。ゆこうとして。わたしとはまるで違うかたであるから、抗って両腕を遠ざかりゆくみなもに伸ばして……、けれどもその手がみなもにはけっして届かない事を、貴方は疾うに知っておられるのでしょう。
 海底に着くまでの聊かを、喜八郎は夢想した。溶けて溶けて溶けている自分と彼の姿を想像し、それは非道く甘い情景であった。わたしは両腕を伸ばしている彼を抱きしめて、彼はわたしの存在に気づけば伸ばされていた腕をわたしにくださるだろう。二人とも溶けて溶けて溶けているのだから、いっしょくたになって、深海の底の底まであまやかな一瞬を過ごすのだ。
「喜八郎」
 突然に名を呼ばれて驚いた。浅瀬のような低音が自分の名を唇に載せた刹那には、喜八郎はぱっちりと大きな瞳を開き、おやまあ、と呟いた。兵助の温かい膝が頭を支えている。おやまあ、と喜八郎は再度、呟いた。
「もうすぐ昼休みが終わるよ」
 喜八郎は上体を持ち上げて、うわの空の様子で、兵助の顔をじいっと見つめる。
「喜八郎?」
 兵助は読んでいた本を廊下と同化した縁側に置き、不思議そうにほほ笑みを浮かべて小首を傾げた。柔らかい仔猫の午睡を見守る気持ちが膝の上に体温となって残っている。それが離れてゆくのは名残り惜しいものだったが、互いに授業があるのだから仕方がない。
「……ああ、そうだったのか」
 ぼんやりとした表情のまま喜八郎の唇から言葉が零れた。その意味するところがなにか、兵助には理解できなかった。ああ、そうだったのか。喜八郎は同じ言葉を数回繰り返し、やがて立ち上がった。
「夢をみていたのは、わたしのほうだったのですね」
 兵助の黒いまなこが怪訝そうにまるくなる。
「また、みさせてくださいね」
 それから丁寧な会釈をすると、踵を返し教室の方向へと歩いていった。
 一人で廊下を歩くうち、みていた夢は次第に現実味を帯びて喜八郎の瞼の裏に現れる。それは、しかし瞬きを一回した時には既に薄れていた。こうしてみたらしい夢をゆっくりと忘れてゆき、甘いだけの幸福感が余韻として彼を包む。
 これでよいのだ、と、喜八郎は浅く息を吐いた。
 みたらしい夢をゆっくりと忘れてゆく。深海の底の底に着くまでに、わたしは、ゆっくりと死んでいる。




み は な し の 舟




(2011.06.02)