わたしがその鳥を見つけたのは、適当な蛸壺を掘るための適当な場所を探して、学園内をうろついていた時であった。 処構わず蛸壺を掘ると思われているらしいが、わたしは実のところ、蛸壺や落とし穴を掘る場所は相当に吟味して、土の感触を確かめて、此処ぞという場所にしか掘らない。その鳥は、そうしてわたしが学園のあちらこちらを歩いている時に、見つけたのだった。 青い鳥だった。 彼、或いは彼女の身体は空より澄んで、深海のように深い色をしていた。青い鳥なるものを見たのは、わたしは、初めてであった。 彼、或いは彼女は羽を休めているのか地面に寝転がり微動だにしなかった。数歩の距離を置いてしゃがみ、じぃっと、彼、或いは彼女の姿を見つめる。果たしてこの鳥は彼なのか彼女なのか。群青の翼は雄々しく今にも羽ばたきそうであったが、嘴のちいさなところは女性の慎ましさを思わせた。 ふいと顎を持ち上げると、空は鳥の青さに負けていた。心細い薄水色が風に流される雲を包み、一雨来そうな気配であった。わたしは雨が好きな人間であるため問題はないが、もし雨が降り出しても起きられず、気づいた時には濡れ鼠ならぬ濡れ鳥になってしまったらば、それは非道く難儀な事だと思った。 鳥との距離を縮めても、彼、或いは彼女は動かなかった。無理やり起こしてしまおうかしらん、と、いつぞや級友の斉藤タカ丸さんが、非道く上手に鳥の鳴き声を真似してみしてくだすったのを思い出し、それをわたしもやってみようと唇を尖らせてみた。ちぃちぃ、だったか、ぴよぴよ、だったか。しかしてわたしの声帯は、タカ丸さんがしてくだすったような上手な鳴き声を再現してはくれなかった。少しだけ、口惜しくなった。 唇を尖らせたまま何度も息を吐き出してみたものの、浅い息が歯の透き間から洩れ落ちる音だけがして、その音のふしだらさといったら、なかった。元来、なにかの、誰かの真似をするという事を、わたしは得意としないのである。言い訳を頭のなかで並べ立て、仕方なしに青い鳥を両手で掬いあげた。背中に担いだ鋤が重く感じられるほど、鳥は軽かった。まるでなにも手にしていないよう、空気だってこんなに軽くはない、それがとても不思議で、なんだか、可笑しかった。 久々知先輩にも見せて差しあげようと思ったのは、手のうちにした鳥の不思議さと可笑しさをわたし一人だけが咀嚼するのはあまりにも贅沢ではないかしらんと思ったからであった。わたしは踵を返すと、来た道を辿り、長屋へと戻った。 「久々知先輩」 先輩は長屋の縁側で書物を読んでいらっしった。声をかけると本に落としていた顔を持ち上げ、わたしに向かってほほ笑みを投げられた。あやべ、と先輩の唇が動くのがわかり、わたしは、ふぅっと安心をして、校庭と長屋とを隔てる垣根を越えた。 お邪魔ではなかったかしらんと不安に思ったが、先輩はわたしが胸のあたりで両手を合わせているのを見止め、「こっちにおいで」、と手招きをされた。わたしは首肯して、彼の側、目の前に立った。 「蛸壺掘りは終わったの?」 久々知先輩がそう言うので、わたしは首を左右に振った。先輩は、そうか、と頷いて、 「勘右衛門から美味しい茶饅頭をもらったんだけど、一緒に食べようか」 「先輩、青い鳥をご覧になった事がありますか」 「青い鳥?」 「ええ、真っ青の羽をした鳥です」 わたしは手のひらを開いて、彼、或いは彼女を先輩の前に晒した。青い鳥は相変わらず動かず、雄々しい翼と慎ましいちいさな嘴だけを武器に、美しく、わたしの、肉刺だらけの手のひらで眠っていた。 「ほんとうだ、青い。初めて見た」 彼、或いは彼女を覗き込んで、先輩は落ち着いた様子で声を洩らす。わたしは彼のその様に満足して、「不思議でしょう」とくすくす笑う。 「うん、不思議だ。なんだろうなこれ、翡翠にしてはちいさいし、雀の一種かな」 「可笑しいでしょう」 「うん、可笑しい」 「可笑しいなら、笑ってください」 わたしが、結構な無理を言うと、先輩は逡巡してから、可笑しいや、と顔を綻ばせた。それで、わたしもまた笑った。くすくす、と。 彼、或いは彼女が、果たしてどんなものであろうと――それこそ雀であろうと、わたしにはどうでもよいのである。可笑しいと先輩が笑ってくださるのならわたしは、穴を掘った時にいつも見かける蚯蚓だって彼に見せるであろうし、先輩は蚯蚓を見てもきっと笑うのであろう。鳥にも青いものがいるのだから、蚯蚓にだって青いのがいるやもしれない。今度蛸壺を掘る時には十二分に注意をしよう。 「先輩、」 ん? と、青い鳥を眺めていた先輩のまっ黒い瞳がわたしを捉える。わたしはこのひとの瞳がとても好きだ、と、視線が重なるたびに思い知る。かなしくて優しくて泣いてしまいそうなほどに、まっ黒だ。 「そのうちわたしが青い蚯蚓を持ってきても、笑ってくださいね」 先輩はまた少し“ま”を置いたが、やがてにっこりほほ笑まれて、「わかった」と言った。 ほぅらね、やっぱり。 わたしはその後、先輩の隣に座り、膝の上に青い鳥を置いて、先輩の級友――わたしは先輩の交友関係にまるで興味がないため、その誰かを知らない。もしかしたら名を口にされたかもしれないが、唇に載せられたそれは話題が移った時には既に溶けて消えている。砂糖菓子みたいに――から貰ったという茶饅頭を一緒に食べた。美味しかった。 投げ出した足をぶらぶらさせて、楽しげに最近読んだ書物の内容を話す先輩の横顔を、まっすぐに見つめていた。木洩れ日がじょじょに透きとおってゆき、葉の影を濃く地面に刻む。 「雨が降りそうだなあ」 話の区切りがついた頃、先輩は庇から空を覗いてぼやいた。それで、わたしはハッとした。 膝の上の鳥は起きない。早く起きてくれなければ、雨に濡れてしまう。濡れ鳥になってしまう。 「雨が降りそうだったから、連れてきたのです」 わたしは先輩の瞳を見つめて言った。でも、と唇が動いたが、言葉が続かなかった。でも、起きない。寝ている。ひとの気も知らないで、眠っている。青い鳥というものは、冬眠をするのだろうか。春は疾うに来ているというに、寝坊にも程があろう。咲いたばかりの桜が、雨で花びらを落とす前に、なんとか起こさなければ。 「起こそうと思って、鳴き声の真似事もしたのです。タカ丸さんが、やってらしたから」 上手にできなかった事は、黙っていた。恥ずかしかったから。 「綾部、」 不意に先輩が口を開いて、わたしは、「なんですか」と言った。まっ黒の瞳に、わたしが映っている。 「残念だけど、この鳥、もう死んじゃってるよ」 空が暗くなる。先輩の瞳には負ける黒い粒々が、地面を穿ってゆく。はあ。わたしはため息のような、そんな返事をした。はあ。 先輩は青い鳥を両手で包み込んだ。広くて大きな手のひらに包まれた青い鳥は、雄々しい翼と慎ましい嘴だけを武器に、美しく、死んでいた。わたしは不意に、今この瞬間、彼の手のひらに横たわる青い鳥を非道く羨ましく思った。そして彼、もしくは彼女を先輩のところに連れてきてしまった事を盛大に後悔した。 何故、彼の手のひらで死んでいるのがわたしではないのか、不思議でならなかった。不思議であったのに、可笑しくもなんともなかった。 「泣かないでよ、綾部」 ついと伸びた長い指が、頬を伝う涙を拭った。かなしいけれど、しかたがないんだ、しゅるいは、おれにはわからないけれど、きっと、なにかの、ひなどりだったんだ。先輩がそんな事をおっしゃっているのが聞こえる。わたしは厭々をするおさなごみたいに首を左右に振り、必死で否定しようとした。かなしいわけではない、口惜しいのだと、伝えたいのに言葉は出なかった。咽のところ、調度くだんの、鳴き声を真似せんとした声帯は随分と意地悪なようであった。 「お墓を作ってやろうか」 洟を啜り、落ち着いたわたしを見計らってから、先輩が提案をした。そして、彼の手の引かれるままに、ハナミズキが美しく咲き誇る垣根に立った。 「……お墓」 「ん?」 ぽつりと洩れた声はわたしの鼓膜の内側をわあん、と鳴らした。非道い響きだ、おはか、か。 「わたしが作ってもいいですか」 先輩は笑って、もちろん、とおっしゃった。 しゃらしゃらと降る雨はすぐにも上がってしまいそうだった。暗かった空にひと筋の切れめが入り、明るい光を何処かに落としている。 完全に雨が上がってしまう前に、憎らしいこの鳥を埋めてしまわなければ。わたしは柔らかくなった土を爪で引っ掻くように掘り返し、浅い穴に鳥を入れた。その上に土を被せてようやく、わたしはなだらかな息を吐き出す事ができた。 わたしは小雨を浴び、鮮やかに冴えたミズキの花びらを何枚か千切ってそこだけが色の違う土の上に散らした。 「ご愁傷様でした」 特になんの感慨もなく、ただ、ああやってやったぞ、埋めてやったぞ、青い鳥め、ざまあみろ、そんな気持ちで知らず火照った頬を、手の甲で拭う。雨はやんでいた。 青い鳥は果たして、彼なのか彼女なのか。今年の桜を見られたのか、見られなかったのか。そもそもあの鳥はほんとうに青い鳥だったのか、今や土のなかの、彼、或いは彼女の姿を思い浮かべる事すら、わたしにはできなかった。埋めてしまったものは、その瞬間から記憶ごと穴のなかに放り込まれる。どうでもよかった。無性に気持ちがよかった。清々しい心で雨の上がった空を見上げた。通り雨の後の静かな空がそこには拡がっていた。 頬に付いた土を、先輩の指先が払ってくだすった。わたしは彼のほうに身体を向けて、大好きな瞳を見つめた。 「蛸壺掘りに行ってきます」 先輩は髪の毛をくしゃりと撫で、気をつけろよ、と言われた。 「大丈夫です。青い蚯蚓を見つけても、すぐに埋めますから」 髪を梳く指が少しだけ名残り惜しかったが、わたしは鋤を担ぎ直して踵を返した。 初夏の匂いを吸い込むと、意地悪な声帯が、ははは、と震えた。ははは。ははは、はは。わたしは震えるままに声にした。意味を孕まない声はまるであの青い鳥みたいに不躾でふしだらで、ああ、実に憎らしい。 (2011.05.11) |