しめやかな青い夜に体を任せる。すうっと力の抜けるままに膝を折り、兵助さんの肩に正面からしがみついた。呼吸は薄く開いた唇から、ひゅうひゅう、と頼りない音を鳴らす。次第に弱ってゆく精神がわたしを錯乱させ、じわりじわりと淡い染みを作る。まるで駄目だ、とわたしは絶望的に悲しくなって、それでも涙は落とさずに、「兵助さん、」と愛しい男の名前を呼んだ。わたしの声は沈黙の続いた冷たい部屋に、凛と落ちた。
 衣ずれの音と心音とが耳を滑る。兵助さんは何も言わずわたしに口づける。彼があまりに優しいため、わたしは、その優しさに触れるたび彼を突き放して何処か遠くへ行ってしまいたくなる。
 消えてしまいたくなる。
 墜ちるのならきっとひとりであるから、彼を、愛しい愛しいこの人を、巻き込んではいけない。そう思ってしまう。
 兵助さんの腕が動き、髪を浚って指先がわたしの鎖骨をなぞる。わたしよりもずっと体温の高いこの指先がとても好きだ。好きだ。好き。
 抗う力は疾うに置き忘れていて、わたし達は夜にほどけた。
 唇で乳首を吸われ、仰向けになったわたしを覆うように彼はまた口づけた。星も月もないというのに、わたしには彼の所作ひとつひとつを見ることができた。触覚が彼と重ねた情事の記憶を呼び覚ます。彼の輪郭がぼんやりとしている。黒く丸い瞳は、しかし静かな波を湛えていて、わたしは胸が詰まって仕方がなかった。
「好きだ。」
 兵助さんの息とともに言葉が落ちた。なんて馬鹿なひと、と思った。そんな大それた人間などではないのに、わたしは。
 きっと彼はわかっている。知っていてそんな言葉をわたしに投げる。残酷な人なのだ。
「大人になんか、ならなくていい。」
 耳朶を舌が這う。熱を孕んで熱い。小さな呻き声をあげながら、わたしは、それを受けている。
「喜八郎、俺さ、」
 ふ、と顔が離れて、視界に兵助さんの火照った頬を見止めた。夜は深い紺青に染まり、どんどんと、墜ちていっているようだった。
「駄目です。」
 わたしは、恐怖を覚えた。
「そんなことを考えては、駄目です。」
 指先を彼の唇へ宛てて、そしてわたしはふう、と息を漏らす。
 何か正体の掴めぬ恐怖が纏わりついていた。
「だって、」
「兵助さん」
「……うん、」
 声の震えを、空気の振動が素直に伝える。
「ごめんなさい、好きです」
 わたしは、そう言って、ぱた、と涙を落とした。
 そして、もう駄目ですね、わたし達、と、言った。
 てっきりまだ、まだ、淵にいるものだと、そう思いこんでいたのに。
「もう、墜ちているのですね、とっくに。」
 ごめんなさい、と言葉にした途端に何もかもが輪郭を失って世界が歪んだ。それは涙のせいだけではないとわたしは理解していた。
「謝らなくて、いいよ。」
 彼はそう言って笑ってくださったけれど、わたしは、ごめんなさい、を繰り返した。
 途方もない底の底に、わたし達はいるのだ。


「もし、死ぬのだとしたら、」
 胎児の形に丸くなって、同じく横になった兵助さんの胸板に頬を寄せた。
「わたしは、降るように死んでゆくのでしょうね。」
 それとも、そう望んでいるだけなのかもしれない。わたしは、小さく息を吐いて、ああ、と、呻いた。
 もう、ごめんなさいも、好きも愛しているも、この体に這入る隙間はないとわかった。
 だからこそわたしは、彼に、それ以上の何かを差し上げたかった。
 たとえ空から落ちる雨粒のように、乾いた地面に浸みこむだけの存在だったとしても、構わなかった。
 いつかそこに芽吹く何かを、わたしは信じていたかったのだ、きっと。
「喜八郎、」
 貴方がその声でわたしを呼ぶのは、あと、何回だろう。
「はい」
 わたしが自分の瞳で、貴方を感じられるのは、あと、どれくらいなのだろう。
「ありがとう。」
「……はい、」
 ごめんなさい、好きです。
 最期に言葉を零すと、兵助さんは少しだけ泣いたようだった。




星屑の雨




[ 2009/11/17 ]