木槿が落ちて夏が終わり、金木犀が香りだす頃、鬱陶しく纏わりついていた残暑もまた息をすることをやめ、ゆるやかに、ゆるやかに、季節が震えた。わたしはそれを肌で感じ、冷えてゆく空気を咽喉に流しこむ。秋の朝の潔さをわたしは知っていた。くいと顎を持ち上げて空を見ると、まだ群青色をした晴れたそこに、小さな星が浮かんでいた。 未だ満ち足りぬ幼き体。これ以上何を求めるのか、わたし。 「兵助、さん、」 愛しい男の名前を呟いたつもりだった。それは、しかし、声にならず消えていった。まるで深海の底のような場所で、わたしは呼吸をしている。言葉すべてがあぶくになる。だからわたしの声は、誰にも届かない。 衣ずれの音もいっしょに、自身の胸を両腕で抱きしめた。一度も休むことなく動き続ける心臓が、今日も生きてゆく運命を呪っている。わたしは、そんなことを望んでいるわけではないというのに。 ほつれた髪の毛が頬を滑る。風は清涼な香りを運び、髪の毛に絡みつく。 もう少し季節が過ぎたら、そのときわたしは雪を見ることが叶うだろうか。 いつの間にかこんなところまで歩いてきてしまった、たったひとりきりで。何処かこころもとなくて、心寂しい。何故ってきっと、貴方がいないからでしょう。今、こんなにも貴方にお逢いしたいと思っているのに。 兵助さんはもうずっと帰ってきていない。日々の数えることを諦めたときからすべては止まって、わたしは同級の者にすら相手をされなくなってしまった。滝ひとりだけは何かとわたしに目を掛けてくれたが、それもわたしは振り払った。(わたしは薄々、兵助さん以外の何をも必要としていないことに気づいていたのかもしれない)。 何も望んでいない。ただ逢いたい、逢いたい、逢いたい。 あの黒く丸い瞳を覗きこみたい。どうしようもなく優しく美しい笑顔。 「あぁあ……」 わたしは冷えた縁側に蹲り、小さなうめき声をあげた。 泣いても喚いても彼は帰ってこない。暴れても壊しても誰もわたしを知らない。 「兵助さん、」 もし今このとき彼が名も顔も知らぬ誰かに殺されていたら、と考えた途端、背筋を冷たい汗が伝った。 指先が痺れて震え、思考が、止め処なく溢れた。 あり得ないことではない、事実彼の同級の誰かが先の実習で何者かに殺されている。殺そうとした相手に返り討ちにされたのだ。 兵助さんは誰かを殺しに行った。 「行ってくるよ」 そう言ってわたしの髪に触れ笑った彼はとてもとても美しかった。 これから誰かを殺しに行くのに、そんな顔をできる彼は心底美しいと思った。 なんて美しいひとだろう、と。 彼の美しさを誰をも知らない。知らせたくない。彼はわたしだけのものだ。誰にもやるものか。もし彼を奪うようなことがあったなら、わたしは躊躇なくそいつを殺す。殺す。千切る。殺す。殺す。引き裂いて、ばらばらにして、埋める。殺す。殺す! 「殺してやる」 わたしの呟きは力なく空に消えた。 彼はあまりにあっけなく帰ってきた。新月の夜のことだった。 その夜、滝(彼とは同室なのだ。)が課題に勤しむ傍らわたしは忍たまの友を放り投げて、床に寝そべっていた。瞳は自然と窓の外を見ていた。月を探したけれど、何処にもなかった。星だけがまたたく静かな夜。 「喜八郎、」 「なあに」 背中を滝に向けたままわたしは答えた。このところずうっとこんな調子なので、滝は何も言わず(たとえば、「こっちを見て話せ」、だとか)、ただ、「私はもう寝るぞ。」と言った。 「うん、」 「お前は?」 わたしは体を起こし、ゆるゆると小指の先で前髪を払った。 「滝が寝るのなら、わたしは庭にでもいるよ。」 そうして、わたしは真っ暗な中庭に立った。 あたりはしんとした冷たい静寂に包まれていた。わたしは何ものの影すら見ることが叶わなかった。月はない。なんだかとても哀しくて、何かが非道く愛しかった。(きっと、貴方を信じていたからでしょう。生きている、って)。 深い夜の色に体が融けてしまいそうだ。星ばかりがきらきらとひかり、その名前のなんといったかを考えているうち、ふと庭のいっとう奥、何処からも死角になるそこに、黒い何かが動くのをみとめた。 「兵助、さん、」 直感でそれが彼のものであるとわたしはわかった。声が吐息とともに漏れ、わたしに気づいたらしい彼は塀の上に立ったままわたしを見下ろした。 「兵助さん、」 あかりなど、きっと必要なかった。ひかりなど、そんなものを必要とする意味がわからなかった。だって、彼はあまりに眩しく、美しい。わたしのひとみに、こんなにも綺麗に映る。 彼は笑った。闇に慣れた目がそれを捉えて、わたしは彼に近づく。 音もなく地面に降り立った彼からは死臭がした。でもそれがなんだというのだ。彼が彼であることになんの違いもない。わたしは死と血と生の匂いをまるごと、いっしょに彼を抱きしめた。きつく強く抱いた。いとしいの、よかった、ああ。 「ただいま、喜八郎」 兵助さんは大きな掌でわたしの髪の毛を掬った。細いひと房を指先で擦り合わせる彼を感じ、ああ、まるでいっしょですね、とわたしは笑う。 「みんな、おんなしですね。」 兵助さんの香りを深々と吸いこむ。いいにおい。 「みんな、おんなしです、なにも変わらない。」 わたしだってしのびだ。貴方だって、しのびでしょう。 「貴方はこんなに綺麗なのに、ほんとうに、綺麗なのに、」 「うん、」 生きようとする意志が、死んだ何かを乗り越えて彼を、愛しいいとしい貴方を此処まで運んできたのだ。 彼は美しい。潔い。強い。優しい。切実だ。果敢ない。 でも、馬鹿じゃない。 「綺麗です、とても。」 兵助さんの鎖骨に頬を宛てて、ゆっくり呼吸をする。 錆びと鉄と死とで胸が満ちた。 わたしは、誰かが彼を殺す場面を決して見ることはないだろうと、信じた。 彼を殺していいのはわたしだけ。彼を疵つけていいのも、わたしだけだ。 「わたしは、きっと貴方をたやすく疵つけるでしょうね。」 兵助さんはしばらく黙って、それから、ふっと微笑った。 「そのときは、喜八郎は、どうするの」 「決まっているじゃないですか」 わたしは、彼を見つめて、言葉を放った。 「その時はわたしがわたしを殺します。」 金木犀が落ちてしまったら、次に芽吹くのはなんだろうか。 季節とともに移ろいゆく生と死との営み、自らでもって断ち切るその無様さと、無謀をわたしは笑った。 それでいい、と思った。 「おかえりなさい、兵助さん。」 ごめんなさい。わたしは、貴方を殺してしまうかもしれない。 すべてを告げると、兵助さんはとても綺麗に笑って、わたしの唇を軽く食んだ。 [ 2009/11/09 ] |