衣ずれの音が心地よく耳を滑って、喜八郎は体を起こした。まるで水を吸ったように重くなった体は、けれど喜八郎にとって調度よいほどであった。
 兵助でいっぱいになった体。
「……、兵助さん、」
 けして届かぬ声で囁く。兵助は胎児のような形で深く目蓋を閉じていた。
 彼の長く綺麗に生え揃った睫毛が淡い影を落とし、喜八郎は愛おしくて仕方がなくなってしまう。
(もうこれ以上は入らないというのに、わたしはほんとうにどうしようもない欲ばりだ。)
 褥をそうっと離れ縁側に続く戸を細く開けると、しめやかな闇に金色の一筋が横切った。
 少しだけ顔を上げた先に、丸く大きな月がぽかんと浮かんでいた。
 両腕で上体を支えて月を見る。そのうち思考が冷えてきて、体に纏わりついていた熱も、冷めてゆく。
 それに一抹の寂しさを感じながら、あの事を考えていた。
 今朝学園に届けられた一通の文。
 丁寧な筆跡で淡々と綴られている現実を、喜八郎は一度目を通しただけで握り潰した。今あの文は自室の押し入れの中に眠っている。
(ああ、しまった。)
 何故そんな事を今になって思い出してしまったのだろう。忌々しいな、と思うけれど、一度思い出してしまったものをまた引き出しの中に仕舞うという器用な真似はできなかった。
 朝早くの事であったため、捨てる時間もなく押し入れに放り投げておいたのだ。
(早く、処理しなければ)
 喜八郎は立ち上がり、足音を忍ばせて兵助の一人部屋を出た。


 自室では滝夜叉丸が静かな寝息を立てて眠っていた。素早く部屋に入り文を持ち出すと、そのまま裏庭へ向かう。
 誰もいない闇に沈んで、文に火を点ける。
 それはうねり、ひしゃげ、あっという間に消し炭になる。
 その様を、喜八郎はじっと見つめていた。
(忌々しい。)
 何故手渡された文を律儀にも受け取ってしまったのだろう。咄嗟だったのだ、と言い訳のように考える。
 あまり人目に触れさせたくなくて、側には一緒に授業に向かう滝夜叉丸がいたから、だから、仕方がなかったのだ。
 不可抗力だ。仕方がない。
 こんな事を考えている自分が不思議で喜八郎は持て余してしまう。ああ厭だ、厭だ。
 ほろほろと崩れてゆく反故紙、足元に落ちる屑が月明かりにぼうっと浮かび上がる。
 埋めよう、と喜八郎は思った。
 すべて燃えたら、穴を掘って埋めよう。
「何してるの」
 気配と同時に声がして、振り返ると兵助が立っていた。寝巻のまま、髪の毛もほどけている。
 喜八郎は柄にもなく動揺した。すぐに言葉はでず、ああ、と唸る。
「……ごめん、気配がなくなって、怖くなったんだ」
「そうですか」
「邪魔だったかな」
 喜八郎は無言で下を向く。手に持っている紙の破片に視線を落とす。
「ごめん、」
 何かを悟ったのか兵助はそっと呟いて踵を返しかけた。「待って」、それを喜八郎が止める。「側にいてください」。
「どうしたの」
 兵助は優しい声で問うた。喜八郎があまりに切迫した様子だったからだ。普段の飄々とした彼とは違う。
「文、」
「ふみ?」
「文を、燃やしていました」
 兵助は喜八郎の隣に腰を屈め、彼の手元を見た。もうほとんど跡形のない紙きれを、喜八郎の細い指先が摘まんでいた。
 兵助があっと思った途端それは喜八郎の指から離れ、
 夜の色に沈んでしまった。
 月が消し炭に影を落とし、更に喜八郎が作る影に紛れてしまう。
「誰からの、って、訊いてもいい」
 灰を足の裏で踏み潰す喜八郎の美しい横顔を眺めて、静かに訊ねた。
「馬鹿じゃないですか、兵助さん。」
「え? 何が?」
「兵助さんが」
 兵助は首を傾げて見せる。喜八郎は少し、笑ったようだった。
「なんでそんなに優しいんですか? 馬鹿なんですか」
「だって、」
 だって、何だろう。言葉はそこで途切れ、冷たい夜風が、二人の隙間を縫ってゆく。
 零れた灰が舞ってさらさらと空気に融ける。
「僕に対してだけじゃないでしょう。みんなに優しい。意味がわからない」
「怒ってるの?」
 喜八郎は、くすっと笑った。その顔を兵助に向けて、「ええ」、と言った。
「それは、何故?」
「さあ、何故ですかね」
 それから、空を見て、ため息をひとつ。
 しばらく沈黙が落ちた。
「母が世話になっていたひとからです」
 まるで無機質な声音で喜八郎は言った。
「お母さんが、どうかしたの」
「母が死にました。その連絡の文です。」
「ああ……」
 兵助は、喜八郎の何も知らない。たとえば、家族とか、たとえば、母親の事とか。
 喜八郎が何も話さないためだ。兵助もまた、彼が何も話さない事を特に気にしなかった。
 知って、それで、何になる?
 だから兵助も自分の身の上は何も語らなかった。そんな空白なんて気にならないくらい、二人にとって沈黙というのは日常の事であったから。
 空気みたいに、ただ側にある。
「どうでもいい事です。」
 喜八郎はそう言って、立ち上がる。すらっと伸びた輪郭を、月だけが縁取っている。
「穴は明日の朝にでも掘ります。」
「……あな?」
「ごみを捨てるためだけのです。ほかに何の意味もない。意味なんて必要ないですから」
 兵助は、そう、とだけ言って、体を持ち上げる。そして喜八郎を見据えて、そうっとその薄い肩に手を伸ばす。
 引き寄せ、一瞬の間に唇を吸って、甘い吐息を絡めて、それで、すぐに離す。
「寝直そう。外は寒い」
 その言葉に、喜八郎は黙って頷いた。





夜 の 底
[ 2009/11/29 ]