聞こえよがしに盛大なため息を吐くと、案の定同室の彼は予習をしていた手を止めて、こちらを振り返った。 「なんだ、そのわざとらしいため息は」 反応も予想通りで、おまけに眉間にしわを寄せているところまで思ったまんまで、わたしは答えるよりもくすりと笑むことのほうを優先させていて。 「…あのなぁー、わたしはいま明日の授業の予習で忙しく」 「ねぇ滝はさ」 またぐだぐだと言われるのも面倒だったので、とりあえず聞きたかったことをさっさと聞いておくことにしよう。わたしは床に寝ころんだ状態で、滝夜叉丸の顔も見ずに問うた。 「恋人になにをされたら一番うれしい?」 「………。」 沈黙。これも思った通り。 滝夜叉丸の躰が震えているのだろう。空気が微かにだが揺れている気がした。 「ねぇねぇ」 「…喜八郎、おまえ大分性格が変わったんじゃないか」 「え、そうかな」 自覚はないけれど。 滝夜叉丸は肩越しにわたしを見ている(わたしの視界に入ってくるのだ、何故か彼は)。 自覚はないけれど、彼が言うのならそうなのかもしれない。 がしかしそんなこといまはどうでもいい。 「そんなことより、滝はどうなの」 「わたしか?」 わたしは滝夜叉丸の恋人みたいなよくわからない存在の顔を思い浮かべて、 「滝は恋人になにされたら一番うれしいの?」 言ったら、滝夜叉丸がぶっと吹き出すのが見えた。 「な、なななななにをいきなり…!」 「別に変な事じゃないよ。ただ純粋に」 疑問を、聞いてみただけ。 具体的な例をあげてくれたらとても助かるんだけれど、滝夜叉丸は何を勘違いしたのか狼狽しながら顔を背けてしまった。 「ねー、」 「知らん!恋人に訊けばいいだろーが!」 「聞けないから、滝に訊いたんだよ」 「だからなんでわたしに訊く」 「だって一番近くに居たから」 滝夜叉丸の呆れたようなため息が聞こえた。わたしが言う事実は、何故かいつも他人を呆れさせる。 「あのな、わたしは恋人になにされたらうれしいとか、考えたこともないぞ」 「ほんとう?」 「あ、ああ…」 ふぅん、とあまり納得できなくて生返事を返す。滝夜叉丸は顔を壁に向けたままだったが、耳まで赤くなっているのははっきりと見えていた。恥ずかしいな。て言うか、何を考えて居るんだろう。 「じゃあ、何でも良いのかな」 なにが、と滝夜叉丸は問い返す。 「久々知先輩になにをしてあげたら一番喜ぶかなって」 「…そりゃ先輩に訊くのが一番だな」 「だから訊いたら意味無いの。内緒にしてやりたいの」 「どーいう企画だ、まったく」 わたしは滝夜叉丸が呆れて何も言わなくなってから、ずっと久々知先輩のことばかり考えていた。最近、忙しくてなかなかふたりで逢うことが出来ていない。ちょっと寂しいな、とはおもうけれど、口に出して逢い引きするなんて真似は死んでもしたくない。だからと言って我慢するというのも、結構大変なものだということを学んだ。(その点、痴話喧嘩ばかりして何百回も絶交して、そうして躰を重ねている滝夜叉丸とその恋人みたいなよくわからない存在との関係が羨ましく感じたりする。) 滝夜叉丸が黙ってしまったので、もうこの部屋に用はなかった。 夜の帷は既に下ろされていて、わたしは風に当たりたいとおもい部屋をあとにする。戸を閉めるときに、中から滝夜叉丸のはーっというため息が聞こえた。 先輩はとてもやさしい。 いままで出逢ってきた何人ものひとのなかで(尤も、その何人かの顔を覚えているわけではないけれど)、きっと一番やさしいひとだ。 どうして先輩はこんなに自分にやさしくしてくれるのだろう。どうして先輩は自分を愛してくれているのだろう。顔を見なくなって、そんなことばかりが頭を巡るようになった。 それは不思議な感覚だった。 傍にいるときはそれだけで、幸福を感じられたはずなのに。離れれば離れただけ、幸福という形の見えないだけどとてつもなく大きな存在が、どういうものなのか、どんなものだったのか、まったく解らなくなってしまうから。 「こうして居るの、久しぶりです」 「そうだな。」 木漏れ日が温かく、おもわず微睡んでしまいそうな日和。わたしたちは特等席(と勝手に指定している)の木の元に佇んでいた。横に座っている先輩を見ると、同じように目を細めてとても眠そうだ。 「眠いですか」 「…ん。ちょっと、な」 5年生の夜間訓練が増えたせいか、先輩は逢うたびに非道く疲れた表情を覗かせる。それでもわたしに気遣って、無理矢理笑顔を作ってくれるから、その笑顔はなんだかとてもひしゃげて見える。そういうところも、先輩のやさしいところなのだろう。 不意にそのやさしさがわたしの思考を止まらせることも多くある。 空咳をして、それが無意味だとわかると軽く手を握り込んでみる。 昔は血を見ることで冷静を保っていたが、先輩と出逢ってからそんな莫迦げた癖は何処かへ飛んでいってしまった。しかし矢張り、駄目だ。寂しさと虚しさは、自制を失って掌に赤い筋を作る。 心臓が縮まって、きゅうと音が鳴った気がした。 しばらく沈黙が流れた。わたしは何とはなしに空を見上げたり、手元の草を千切ってみたり、先輩との空間の共有を自分なりに楽しんでいた。 先輩が隣に居る。先輩の匂いがする。先輩の気配がする。先輩の…。 コトリ、と。 何か重いものが右肩に乗った。 「先輩?」 先輩のふさふさの髪の毛が頬に触れて、くすぐったい。長い睫がいつもより長く見えて、ああ、目を閉じて居るんだ。それでようやく、先輩が本当に眠ってしまったことに気が付いた。 「……。」 どうしよう。 先輩の頭を肩に乗せたままわたしは狼狽した。 …が、そんなことにいちいち戸惑っている必要はなかった。 こんな先輩の表情を見るのは初めてで、思わずじっと凝視してしまっている自分は端から見れば恥ずかしい人間かもしれない。しかしわたしは真剣で。 (先輩の頭、重い) きっと脳みそがいっぱい入っているからなのだろう。 先輩は優秀だし、やさしいから。きっと普通の人よりもずっとずっと頭が重たいんだろう。 「…先輩は、何をして差し上げたら一番うれしいですか」 答えなぞ端から期待していない。熟睡している先輩を起こす気も、更々無い。 ただ空気のようであればいいとおもった。自分の存在が、先輩にとって居て当たり前になればそれで。 先輩の頭とわたしのそれをこつん、と合わせてみる。いつもはちょっとした気配ですぐ身構えるほど敏感なのに、今日はこの温かさも手伝ってか一向に起きる気配はない。 ああ、そうか。とわたしはおもった。 せめていまだけでも、先輩にやさしくしてあげよう。 いままでいっぱいやさしくしてくれた分、わたしもやさしさを返してあげよう。 そうしたらいつかまた、疲れたような笑顔じゃなくて、また元のようにきらきらした顔で傍に居させてくれるかもしれないから。 わたしは額にかかっていた先輩の髪の毛をそっと払って、気付かれないように口づけを落とした。誰かに見られて噂されても、もうどうでもいいとおもった。 [ end ] [ 2007/05/13 ] |