風に遊ばれて流れる長い髪の毛は、色素が薄いせいか光を反射してきらきらと輝いていた。それは決して目の錯覚というものではなく、言うなれば宝石箱を開けた瞬間によく似ていた。中身は何が入っているか判らないけれど、きっとすばらしいお宝に違いない。それに酷似している胸の高鳴り。期待と、そして不安。





春のうた






 すれ違いという瞬間的な邂逅でも、久々知はその人物に不思議な程の興味を抱いていた。鼻先を掠めた仄かに甘く焦げたようなにおい。あれは何だ?…それがまず最初の感想。次に見かけたときは、その身軽そうな躰。しなやかで細い体躯は、自然と猫を彷彿とさせた。大きな団栗眼の端は少しだけ釣っていて、久々知に植え付けた最初の印象をより濃いものとさせる。そして髪の毛。ふわふわとたゆたう灰色は、久々知がいままで見ていたどんなものよりも淡くこころを焼いた。
 奇妙な感覚だった。
 二言三言、それも義務的な会話をしたただそれだけなのに、いつの間にか彼を見つけると、目で追っている自分が居る。久々知の記憶の片隅に、いつも彼が居た。
 そして今日、久々知はその子猫のような少年を、木の上に見つけたのだった。



「こんにちは」
 最初に声を掛けたのは、少年のほうだった。食事のあとの昼下がり、良い天気なので木陰で本を読もうと外に出た、まさにそのときである。常々気にかけていた少年の姿を、この目に見つけてしまったのは。
「久々知先輩…ですよね。」
「あ、ああ。」
 少年はいつも久々知が読書をするときの背もたれにその幹を使っている、太い木の枝に座って空を見上げていた。久々知を見つけると首だけを動かし、そう口を開く。
「こんにちは。」
「…こんにちは」
 丁寧に頭を下げる少年につられ、久々知もぺこりと頭を垂れた。ちょうど太陽の昇っている位置に、少年は座っていた。太陽の光が眩しく、目を細めて彼を見る。声だけでは合点がゆかなかった久々知も、その顔を拝んだとき、一気に体温が上昇するのがわかった。…例の少年。何故か自分の脳に進入してはかき乱していく、彼。
「わたしのこと、覚えていらっしゃいますか」
「あの…火薬庫の鍵を見つけてくれた、」
 久々知が頷くと、少年はよかったと言うように口を動かした。
 つい先日のことだ。
 委員会で土井から預かっていた火薬庫の鍵を、久々知は不甲斐なくも落としてしまったのだった。厳しくなる実習やら追加されてゆく課題やらに追われ、精神的に疲れていたのだと、いまでは落ち着いて考えることはできるが、確かにあのときは狼狽していた。食堂、自室、職員室と探し回るうち、運動場に出たときこの少年が久々知を呼び止めた。振り返った久々知は、差し出されている鍵を一瞬何のことかわからずぼうっと眺めていたが、少年が「お探し物はこれですか」と言ったとき、躰中から感謝の気持ちが溢れてきた。飛び上がらんばかりに礼を言う久々知を、この少年は満足そうに、えてして表情は変えないものの、見つめていたのだった。
 そしてそれ以来、だ。
 久々知の思考の端々に、少年の顔が浮かび上がるようになったのは。
「あのときは本当にありがとう。おかげで助かったよ」
「いいえ。偶然見つけただけのことですから」
 少年は静かな口調でそう言った。
 初めて会話をしたときからそうだったが、この少年は冷静というか、どこか掴み所のないしゃべり方をする。怒っているのか悲しんでいるのか、喜んでいるのかがいまいちわからない。抑揚の無い声は見た目の可愛らしさとは裏腹に低音で、久々知はすきな声だとおもっていた。
「…読書ですか」
 少年の視線が、久々知の手元に移る。
「うん。その木の下、おれの特等席なんだ」
「おやまぁ、お邪魔していました」
「あ、いいよ別にそのままで!」
 地面に降りようとした少年を、久々知は慌てて止めた。近づいて見上げると、少年もそれに合わせて久々知を見つめる。どきり、と心臓が鳴ったのがわかった。視線を合わせるだけで、どうしてこんなにもどきどきするのか…久々知は無意味に咳払いをしてから、口を開いた。
「そう言えば名前、聞いていなかったよな」
「綾部、」
 呟くように、少年は言う。
 綾部喜八郎。久々知の耳に、その名前が心地良く響いた。
「綾部くんは…」
「あ、綾部でいいです。敬称を付けていただくほどの者でもありませんから」
 その言葉を聞いて、久々知はぽかんとした。そして数秒の沈黙を置き、ぷっと吹き出してしまう。綾部が不思議そうに首を傾げた。
「どうか――?」
「…いや、変わっているな、とおもって」
「そうですか」
 久々知はまだくすくす笑いを止めない。腹の底がこそばゆくなってくる。まるで温かい太陽を浴びているような、そんな感触が久々知を撫でた。
「綾部はなにをしているんだ」
「特になにも…」
 綾部が視線を空へと向ける。春のやさしい光が、彼を照らす。その髪の毛はやはりきらきらと輝いて、久々知はおもわず目を細めた。
「敢えて言うなら…空を見てました。」
「ずっと?」
 こくり、と頷く。
「ぼーっとしてるのがすきなんです」
 再び顔を久々知に向けて、綾部は言った。無表情だが声はまろく、どことなく甘い響きを持っていて、久々知はそれに驚いていた。さっきから同じ表情のまま…久々知を見ても愛想笑いひとつ浮かべない。普段なら無愛想なやつだくらいおもうはずの久々知が、非道く気持ちよく会話をしている。それは彼の持つ寛大さではなく、綾部が放つ温かさの空気―初めて逢ったときに感じた、甘く焦げたようなにおいのせいなのだと、久々知はここでようやく気が付いた。
「先輩?どうされました?」
「え、あ、いや!」
 突然声を掛けられて、狼狽しながら苦笑いを浮かべる。動揺している…と久々知は自分でおかしかった。
「あの…お邪魔でしたらわたし、帰りますけど」
「いやいいんだ。そのままでいて」
「翳りませんか」
 綾部の影が、久々知を覆っている。木の根本に座ったら、恐らく書物の字も隠れてしまうだろう。しかし久々知は既に読書などどうでもよかった。少しでも長く、この不思議な少年と時間を共有したい。
「大丈夫だよ」
「…。」
 綾部は大きな目を更に大きくして、奇妙な生き物を見るような視線を久々知へと送る。
「…先輩も変わってますね。」
「そうかな」
 久々知は幹に背を凭れかける形で腰を下ろした。読めないというほどでもないが、確かに綾部の影が自分にかかっている。細い輪郭。光を反射して、風に揺れる髪の毛。あのときと一緒だ、と久々知はおもった。初めて彼と面と向かって話をしたとき…ほんの一瞬の出来事に過ぎないあのときを、久々知はまざまざと思い起こした。きれいな顔をした綾部は、一瞬おなごかと見まがうほどであった。しかし制服は紫色で、すぐにひとつ下の後輩であることを知る。あれは夕暮れが近い刻限で、夕焼け色に染まった綾部の髪の毛は、とてもきれいに久々知の瞼に焼き付いた。
 時めき。まさか、ここにきてそれを感じるとは思わなかった。
(綾部の影…)
 膝の上に置いた本にかかる、黒い塊。
 微かに感じる気配。におい。
(これはあれか…もしかして恋というやつなのか…?)
 穏やかな風にも揺れる髪の毛。
 久々知の本の表紙がぱたぱたと捲れる。
 疾うに空へと戻ったらしい、綾部の視線を、もう一度受けたいとおもう。
(って何考えてんだ、おれ!)
 だけどもう一度…あの目で、視線を、ほしいと。
(見上げたら、合うだろうか…いや、なにを期待してるんだ)
 だんだん淡い色に染まっていく心は、久々知の意識を散漫にした。
(おれはこのこの名前しか知らないのに)
(あのこだって、おれの名前しかきっと知らない)
 おもい、委員会は知っているかも、と付け足した。
 そのときだ。
「うわッ」
「え?!」
 バキリ、と激しい音が頭上でした。葉が、新芽の付いた枝が、綾部の声が、落ちてくる。
 …落ちて――?
「っあやべ!」
 次の瞬間、久々知の両腕の中に、綾部は居た。否…落ちてきたのだ。木の上から。
「っつ〜…」
「せんぱい、大丈夫ですか?!」
 綾部を抱き止めたとき、勢い余って後頭部を幹に強打してしまった。
「だ、だいじょうぶだ…」
 顔を歪めて、なんとかそれだけを言う。綾部は久々知の両腕の中にすっぽりと横抱きになっていた。
「綾部は平気――」
 途端、綾部の顔色が変わった。
「なんで避けないんですかッ」
「え?」
 突然の怒号に、一瞬久々知の思考回路が止まる。
「わたしなんて怪我したってすぐ治るのに!先輩なら出来たでしょう?!」
「あやべ…?」
 じぃっと睨み付けるような、強い瞳。これはまさしく、先刻まで切望していた綾部の「視線」そのものである…が。
(怖いよ…綾部…)
 迫力におされ、情けなくも視線を外そうとした。が、外れない。
 視線をまるで絡み取られたように、動かない。
「避けて下さってよかったのに…」
 綾部の声は一発目よりは幾分小さくなったが、それでも怒りを湛えていることは明らかだった。抱えられた状態のまま、身動きも取れず、俯き唇を噛みしめている。睫、長いんだ、とおもわず久々知は見惚れてしまった。
「なんで避けないんですか」
「なんでって言われてもな…」
 注意が散漫だった、というのも事実。しかし実際には、避けきれないことではなかった。
 落ちてくる、という気配は感じたし、そのまえに葉がやたらと降ってきたので何事かとおもった。しかし、だ。
「…無意識に」
「え?」
「いや、綾部が落ちてくるなって、わかったら、無意識に…」
「…意味がわかりません」
 おれだってわからない。いやしかし、確かに落ちてくるという瞬間、おれは手を広げていたんだ。受け止めるように。地面に叩きつけられないように。
 この手でしっかりと抱き止めろと。
「綾部が無事でよかったよ」
「…。」
 綾部はまだ何か言いたげだったが、開きかけた口はすぐにしぼんだ。薄い唇に、少しだけ血が滲んでいた。その隙間から桃色のなにかが出てきて、それを舐め取ったとき、久々知の心臓は飛び上がりかけた。小さな舌の動きすら、いまの久々知を動揺させる…。
(って、やばいんじゃないのか、おれ!)
「あの」
 早鐘を打つ心の臓を気取られまいと、口を開こうとした久々知を綾部の小さい声が遮った。
「…先輩は大丈夫ですか」
「は?おれ?」
「あたま」
 指摘されて改めて、後頭部を強打したことを思い出した。思い出した途端、忘れていた痛みさえ蘇ってきて、久々知はそっと傷口を撫でる。ごく小さな瘤の感触が、指先にした。
「大丈夫、これくらい」
「…放っておいてくれてもよかったのに」
「何言ってるんだ」
 再び萎れていく綾部の肩に、ぽんと手を乗せた。
「わたしのせいで先輩が怪我されるのは厭です」
「おれは別に厭じゃないけど…」
「先輩は厭じゃなくても、わたしは厭です」
 真剣な目でそう言われると、久々知も閉口してしまう。しばらく何を言えば良いか考えていると、綾部の伏せてしまった睫が、肌に濃い影を作っていることに気が付いた。
 きれいだ、と素直におもう。
 頬は血管が透けて見えるほど白く、前に垂れてきた髪の毛は遠くで見るよりずっと輝いて見える。きれいだな、ともう一度心の奥で呟いた。
「…気にしなくていい」
「でも、」
「綾部が無事ならそれでいいから」
 な、と首を傾けて顔を覗き込む。綾部はまだ納得のいかないような表情をしていたが、しばらく押し黙ったあと、小さく頷いた。
「…あ、綾部切れてるよ」
 髪に隠れて見えなかった額に、一本の赤い筋が出来ている。
「大丈夫です」
 綾部の言葉を無視して、そっとその疵に触れてみる。血は止まっていた。
「あの、先輩」
「うん?」
 そう言えばいつまでこうしているのだろうと漠然と考え出した頃、綾部が口を開いた。
「…すみません。ありがとうございました」
「どういたしまして」
 頭を下げる綾部に合わせ、久々知もまた頭を垂れる。
 ふ、と、鼻腔を何かが掠めた気がした。
 甘い…なにかが焦げたような、におい。
「先輩?」
 綾部はぼんやりしている久々知を不思議そうに見つめる。その視線はもう、怖くなかった。
「…おれ、綾部のこともっと知りたくなった」
「はい?」
 突然久々知はぼやいた。
「もっと教えてほしいんだ、綾部のこと」
「…ええと」
 もう自分が何を言っているのか、皆目分からない。ただ、綾部のにおいが、ぬくもりが、愛しいと。
「…駄目かな」
「いいえ…」
 綾部は小さく頭を振った。
「ありがとう」
 揺れた髪の毛から漂うかおりは、太陽の光をたくさんに浴びたせいであると久々知が気づくのは、もう少しあとの話になる。






[ end ]




[ 2007/04/07 ]