「あのさあ」 わたしは美味しそうに学食のカレーを口に運ぶナカノの、朝から凄まじい存在感を放っていた目もとを見つめて言った。 ん、と、視線が持ち上がる。ナカノの睫毛は長い。ただでさえ長い睫毛をマスカラでめいっぱいに伸ばしている。逞しく蔓延る雑草みたいだ。 わたし達が向かい合っている席の周りでは、昼食を摂りにきた学生達が笑ったりしゃべったり黙々とカレーうどんを啜ったりしている。この健全な賑やかさが、わたし特に、好きでも嫌いでもなかった。モラトリアム期間は存分に楽しんでいたほうがきっと具合がいい。先はまだ長いのだから。 「やっぱりちょっと、濃すぎるよ、アイライン」 「……そおぉ?」 ナカノは雑草みたいな睫毛をバサバサと唸らせて、残り少なくなったカレーの皿にスプンを置いた。「辛い。美味いけど。水貰ってい?」。いいよ、とわたしが言うより早く、ナカノはわたしの、手をつけていない紙コップから水を飲んだ。すぅっと伸びるシャープな顎のラインや、首筋の潔い白さが瞼の奥を傷ませる。彼女はこうしてわたしをいつも、疵だらけにしてしまう。 長テーブルは苦手なため(前後左右にひとがいるのは落ち着かない)、ナカノと食堂にゆく時はいつも食堂の端に置かれているちいさな丸いテーブルを遣う。ちいさな、といっても、無理をすれば六人は座れる、昼食時間以外はもっぱら女学生の談笑の場であるそれだ。 「いや、違う、やっぱ駄目なんだよ、今使ってるの」 ナカノは一気に飲み干してしまったらしい紙コップをテーブルに置くと、唇を尖らせる。言い訳をする時の彼女の癖だ。 「なに使ってる? メーカ」 「百均で売ってたやつ。委細不明」 「ほおお」 わたしは彼女のチャレンジ精神を称賛した。ほおおおお。ナカノが真似をする。ほおおおおおぉぉぉ……。 「前のに戻しなよ」 「んんー……、でも今月お金がなあ」 残りのカレーを口に含んで、咀嚼し、飲み込む。食道を通って、胃のなかに落ちる。胃液によって溶かされるまで、カウントダウンは二十四時間。 わたしはとっくに空になっていた弁当箱をナプキンで包み、ふっと視線を右手に逸らした。みどり色が美しいキャンパスは、わたしの思い描いていたものではなかった。オープンキャンパスに参加した際に見つけた、四季折々の花を咲かせる花壇は此処にはない。高校三年の夏休みだったから、あの時は、クレマチスの紫が淡く綻んでいた。さみどりの茎が真っすぐに立ち、白の混ざった紫の花びらが、スカートの襞のように波打っていた。この大学にしようと決めた。四年間をクレマチスの咲く大学で過ごそうと、わたしはその時、確かに思ったのだ。 「バイト変えたら?」 改めて視線を戻せば、ナカノは頬杖を着いて薄く目を閉じていた。目を伏せるとよくわかる。やっぱり、濃すぎる。 「んー、でも今んとこの上司さん、いいひとだしなあ。時給安いからって辞めたら悪いよなあ」 人間関係をすぐに拗らせるナカノにとって、大学に入学し始めた四度めの酒屋でのアルバイト――一度めのコンビニは一週間で終了(年下の先輩と折り合いが付けられなかったらしい)、二度めのホステスは一日でクビ(マネージャーに叱られたらしい。曰く、「理不尽すぎる理由」で)、三度めのイベント補佐は二ヶ月ほど続いたけれど、こどもに群がられるのに疲れたと言って辞めた――は、薄給ながらもひとのよい店長が気に入って、そろそろ一年と三ヶ月が経つ。もったいないなあ、とナカノはあくび混じりにぼやいた。 「ミシマはよく続くよね、バイト」 「わたし?」 いきなり話題が自分にスライドし、思わず苦笑が洩れた。 一年次の最初の頃に始めた市立図書館のアルバイトは、なんだかんだで二年のGWが終わっても続けている。土日はほぼ一日、平日もできるだけシフトを入れているため、給料のほうもなんだかんだで結構な額を戴いている。わたしはこの大学に入って、なんだかんだで巧く生きているほうなのかもしれないな、と、目の前で渋い顔をしているナカノを眺めながら思った。 「単純に、本が好きだからかなあ。ナカノもなにか好きなもの関係のバイト探してみたら?」 「好きなもの、ねえ……」 「ほら、服とか。アパレルは?」 「接客がなあ……、あとノルマとかあったりしない? それがヤなんだよねえ、プレッシャーになるわ」 「ノルマなしのところも結構あるよ。つぅか、タウンワーク見ろよ」わたしはぐずぐずと言葉を放つナカノの額を人差し指で弾く。パチンッ、と軽快な音がした。 「あぁあ、面倒だなあ。就職も考えなくちゃいけないしさあ……」ナカノが深く息を吐き出す。 「就職か……」 ぽつり、と言葉を零す。彼女の唇に載せられたその言葉は、軽やかに彼女の周りを歩き廻っているようだった。風が吹いたら抗いもせずにふらっと飛んでいく、柔らかい花びらの一かけら。 「大人になりたくないよ、私は」 「大人?」 冗談っぽく、しかしおそらくは本気で放ったのだろうナカノの言葉をわたしは心の底から可笑しいと思い、つい吹き出してしまった。 左右非対称のアイラインは、いまの彼女にとてもよく似合って見えた。眉を寄せ唇を噛んで中身のない紙コップを指先で玩ぶ。紙コップがたやすく凹み、それをまた元に戻す。白い紙の表面に老婆の皺のような筋が走った。 「マジなんなんよこれ、思春期かー?」 埼玉出身のナカノが舌足らずの方言で言い、わたしは、「かもね」、と笑った。 中庭では学内唯一の喫煙所で煙草を燻らせる男子学生が二人、なに事かを言い合っている。授業の話か、アルバイトの話か、就職の話か、恋愛の話か――いずれにせよ、いつかのクレマチスの花は此処には咲かない。 わたしは男子学生を覆っている新緑の眩しいみどりを見つめた。葉のあいだから覗く空が遠い。 なんだかんだで巧く生きている。それだけが、いまのわたしの誇りだ。 (2011.05.20) |